アリ戦以後、猪木の異種格闘技戦は1977年8月のプロ空手のモンスターマンから、1980年2月の極真空手のウイリーウィリアムスまででいったん終了する。異種格闘技戦はテレビのスペシャルマッチとして生中継されたものも多く、アリ戦での20億の借金を返すためプロレスよりギャラの良い異種格闘技戦を続けざるをえなかったようだ。この時期から衰えは明らかである。プロレスでは1977年1月にスタンハンセンが新日に参戦、ハンセンが外人勢のエースとして認められたのは1979年4月の第2回MSGシリーズで、アンドレザジャイアントを抑えて決勝戦に進出した。このシリーズでハンセンのベストバウトは坂口征二を破った試合で、頑強な坂口がハンセンの猛攻で血を吐いてKOされた。決勝では猪木に敗れるが、この時点でハンセンは猪木を超えていた。1978年3月に帰国した藤波辰爾がジュニアヘビー級として活躍し、新日本プロレスの興行は上向きだった。ウィリー戦で格闘技戦がいったん終了したのも借金を返す目途がついたのだろう。1978年11月猪木は西ドイツのシュツットガルトでローランドボックに完敗する。この試合でも猪木がその後のビジネスを考えて相手を光らせる天才ぶりは健在で、この1試合のみでいまだにボック最強レスラー説が残っている。ただし強さではこの時点ではボックは猪木より上である。もはや全盛期の猪木とは程遠かった。1980年猪木はアントンハイセルを設立し、サトウキビンの搾りかすから牛の飼料を作る事業に乗り出す。結果的に事業は失敗し、猪木は数十億円の借金を背負う。1981年4月佐山聡をタイガーマスクに変身させることが成功し、新日本プロレスは好調だったが、利益は猪木の個人事業につぎこまれ、不満をもった多くのレスラーが離脱した。1983年第1回IWGP決勝で猪木はハルクホーガンにKO負けするが、力は落ちても相手を光らせる天才は健在だった。1985年9月藤波辰爾とのシングル戦に勝利するが、猪木は藤波の4の字固めで前半に足を殺され、卍固めもふりほどかれた。最後は藤波が猪木に花をもたせた。1989年猪木はスポーツ平和党から国会議員になるが、この時点でプロレスから退く決意を固めたと思われる。猪木の衰えとともに、プロレスを見ること少なくなっていった。その後はスポット的に試合に出て、1998年4月ドンフライとの対戦が引退試合で、フライは猪木に負けて花をもたせている。その後の猪木だが、自作自演のプロレスラーとしては天才だが、格闘技のプロモーターとしては凡才だった。2022年10月1日に79歳で亡くなった。最後に日本プロレス3大スーパースター力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木の比較をする。レスラーとしての強さは全盛期では猪木、力道山、馬場の順である。馬場のレスリングはプロレスであって、格闘技ではない。プロレスラーとしてのうまさは猪木が1位で、馬場と力道山が互角である。プロモーターとしての能力は力道山、馬場が互角で、猪木は落ちる。格闘技戦は1972年新日本設立時のまだ強かった時期に始めるべきであった。ファイトマネー当時18億円のアリ戦をやめ、フォアマン、フレイザー、ノートンあたりにすべきだった。アントンハイセルにつぎ込む金をもっと制限すべきだった。私が最後にプロレスを見たのは小川直也対橋本真也の試合で2000年4月である。