木村政彦は1917年9月10日熊本県に生まれた。1937年全日本選士権に初優勝し、以後戦争をはさんで1949年の全日本選手権にも優勝、その間負けを知らず史上最強の柔道家「鬼の木村」と言われる。1950年プロ柔道旗揚げに参加するが、興行不振による給与未払いのため脱退し、プロレスラーに転身する。1951年リオデジャネイロでブラジリアン柔術の使い手エリオ・グレイシーを破る。帰国後はプロレスラーとして力道山とタッグを組みシャープ兄弟と戦うが、力道山の引き立て役であることに不満を持ち、1954年12月22日蔵前国技館で力道山と対決する。 「昭和の巌流島」とよばれた対決は木村のKO負けとなる。24日内外タイムスで、木村が力道山に2枚の誓約書を渡していたことが、力道山によって暴露される。内容は、「1回目の試合は、1本目は力道山が取り、2本目は木村が取る。3本目は時間切れ引き分けとする。2回目の試合は力道山の勝ちにする。」というものである。本来筋書きのあった試合を、力道山が筋書き破りで勝利したことになる。この試合については、様々な証言がなされ、真剣勝負なら木村の勝ちだったという意見が多い。だが私の意見は異なる。18歳の木村の写真を見ると、猛練習できたえあげた強靭な肉体であることがわかる。だが力道山と戦った木村は、年齢による肉体の衰えが明らかである。公称では木村より7歳若い力道山は、肉体的には全盛期である。力道山はプロレスブームを起こし、実業界でも成功したように、計算高い人物である。ブック破りは相手の反撃で返り討ちにあう恐れがある。一般に語られてる木村の蹴りが急所に入り、力道山が逆上したという説は、力道山をわかっていない。力道山は木村とタッグを組みながら、木村の現在の実力、体調を判断し、今の木村なら真剣勝負になっても倒せると判断して、ブック破りを計画したのだと思う。目的はプロレスビジネスの独占である。木村は練習もせず副業にキャバレーを経営していたという。力道山を決意させたのは、木村の肉体・精神の衰えである。全盛期の木村なら力道山を問題にしなかったが、1954年12月の木村は力道山より弱かったと私は判断する。木村は世間から忘れられたまま、1993年4月18日に亡くなるが、グレイシー柔術に勝った男として現在では再評価されている。