アントニオ猪木は1943年2月20日横浜生まれで、2022年10月1日激動の人生を終えた。私が猪木の存在を知ったのは1966年で、日本プロレスの第8回ワールドリーグ戦に凱旋帰国が決まっていたが、帰国途上にハワイで豊登に引き抜かれ、日本プロレスを脱退し、東京プロレスを旗揚げする。豊登は日本プロレスでは力道山亡き後のエースだったが、金銭観念に問題があり、会社の金を競輪競馬で使い込んだため、日プロを解雇されていた。口説き文句は「日プロではジャイアント馬場の引き立て役にされる。」だったようだ。同年10月の旗揚げシリーズで、猪木は外人勢のエースである肘打ちの達人ジョニーバレンタインと激闘を展開する。東京プロレスはテレビ中継が付かず、営業面も弱く、猪木と豊登の対立もあり3か月で倒産する。レスラー猪木としてはこの時期が最強だったとも言われている。翌1967年5月に日プロの第9回ワールドリーグ戦の途中で、猪木は日プロに復帰する。吉村道明と組んで、ダンミラー、マイクデビアス組と対戦し、デビアスをコブラツイストで仕留めている。この時初めて猪木の試合をTVで見たが、新しい時代のプロレスという強い印象を持った。プロレスは序列制度が強く、移籍したレスラーは借りてきた猫のように精細を欠くが、猪木は実力でそのジンクスを打ち破った。プロレスは格闘技ではなく、エンターティメントであることは子供心にも分っていたが、猪木はエンターの枠内でも常に強さを追求していた。日プロ時代の名勝負は1969年11月のNWA世界ヘビー級王者ドリーファンクジュニアとの60分フルタイム引き分けの試合である。ドリーはジャイアント馬場の挑戦も引き分け防衛してるが、試合内容は猪木戦の方がはるかに上だった。猪木は間接的に馬場より優れたレスラーであることを証明した。1971年12月猪木は会社乗っ取りを謀った疑いで日プロを追放され、翌1972年1月新日本プロレスを旗揚げする。ジャイアント馬場も全日本プロレスを旗揚げし、日プロは崩壊する。一流外人レスラー招聘のパイプを馬場に抑えられ大苦戦したが、ここで対戦相手を光らせて、名勝負を創設するという天才レスラー猪木の本領が発揮される。まずカナダのジートシンをインドの猛虎タイガージェットシンという凶悪レスラーに仕立て上げライバル抗争を展開する。新宿伊勢丹前でシンの猪木襲撃で話題作りをする。1974年3月元国際プロレスのストロング小林と、力道山対木村政彦以来の日本人同士の決戦を行う。この時のジャーマンスープレックスで首を痛め、以後ジャーマンはあまり使わなくなる。同時期大巨人アンドレザジャイアントの招聘にも成功し、観客動員力がアップする。1975年12月ビルロビンソンと実力世界一決定戦と名打った試合を行う。結果は引き分けだが、ロビンソン優勢の評価が多く、ロビンソンは実力で猪木を上回るという評価は今に至っている。だが私の考えは異なる。プロレスはビジネスであり、猪木は相手を光らせる天才である。今後ロビンソンとの抗争でビジネスを有利に運ぶために、猪木はあえてマイナー団体国際プロレスのエース外人だったロビンソンに華をもたせたとみている。だがロビンソンは馬場の全日本プロレスに移籍し、両者の対決はこれが最後となる。猪木はあえて花をもたせてやったロビンソンの勝ち逃げが許せなかったようで、その後新日ではロビンソンは二度と使われなかった。1976年2月、猪木はミュンヘンオリンピック2冠王のオランダの柔道王ルスカと初の異種格闘技戦を行い、勝利する。この試合は当時妻の病気の治療費に窮乏していたルスカが勝ちを譲ったという説がある。1976年6月猪木は世界ヘビー級チャンピオンモハメッドアリとの異種格闘技戦を実現させる。結果は15ラウンド戦っての引き分けだが、当時は見るに堪えぬ凡戦と散々な評価を受ける。私はこの試合は様々な制約を受けながらの真剣勝負と観ており、猪木はスタンド勝負であっさり負けるよりも、罵声を受けながらも15ラウンド戦い抜く方を選んだと思う。猪木はこの試合で莫大な借金を負う。会社の借金でも個人補償をしていたようである。さらに15㎏程減量してリングに臨んだため、以後レスラーとしての力量はかなり落ちていく。アリも猪木のキックによる足の内出血でその後のボクシング人生は精彩を欠く。長くなったのでここで前編の終了とさせてもらいます。